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風立ちぬ

「風立ちぬ」感想です。
 アニメ映画の方です。2013年夏の公開からだいぶ経ってますので、ネタバレ全開でまいります。

近年「スッキリ見れない系」宮崎アニメの最高傑作
 堀辰雄の小説と、ゼロ戦設計者の堀越二郎の実話を混ぜ、揺れ動く戦前近代日本を描く半現実・半妄想物語。これが予想をはるかに超えて心に刺さり、同時に悶々と後を引く傑作でありました。

 いわずとしれた天才アニメーターであり、『風の谷のナウシカ』において天才漫画家でもある宮崎駿という人は、その名声の大部分を国民的・世界的アニメ映画監督として知られております。どの家庭にも「ジブリ映画」のビデオやDVDが並び、日本人の子育てに多大な影響を与え、定期的にテレビ放映され繰り返し高視聴率を上げるという、国民的定型アニメ映画像を形作っております。

 ところが「誰もが知る」宮崎監督となっていくとともに、紡ぎ出された世界は、より「誰もがスッキリとは見れない」物語となっていったように思うのですね。おそらく「もののけ姫」からでしょうか。一本の映画としての物語性よりも、個々の登場人物の意識・真実を重視するという思い切り。スッキリ気持ち良い読後感を取り繕わず、描き切れない部分はあえて描かない突き放し方。

 これは宮崎駿に限らず、多くの物語作家、映画監督の普遍的態度とは思います。が、この人の場合は、その上さらに強烈な葛藤が乗っかっているように見えるのですね。つまり「人間の抱える問題を追求すべきだが、アニメは子供のためのもの」という葛藤であり、「創作の中では自由にのびのび好きな事を描きたいが、地獄である現実に目を閉ざすわけにいかない」という葛藤であり、「絶大な影響力を持つ大人である自分と、無責任なガキである自分」という葛藤。

 ワタクシすべての宮崎作品を見ているわけではないのですが、
「なんかとんでもないことになって来たぞ。」
とハッキリ思ったのは「千と千尋の神隠し」からですね。
 この映画、一見「日本の児童文学」の体裁を取っており、小学生の女の子が日常から異界に迷い込み、また戻ってくる話です。国民的家族アニメの定型ドンピシャになりそうなものですが、これが見ていてどうにもスッキリしない。優れた児童文学にある「円環が閉じ、主人公が成長する」感が無い。どうも意図的に描かれていない。ただし、細部と動きはテッテーテキに高度に作りこまれているので、主人公目線で見る限り、濃密な異世界探索をする事はできる。

 「崖の上のポニョ」に至って、とんでもなさは加速し、「日本の幸せな絵本」の体裁を取りながら、世界の破滅と死のモチーフを隠すことなくちりばめ、その辻褄は一切説明しない。
 「千と千尋」も「ポニョ」も、どちらも好きなんですけどね。ただし、天才オッサンの作ったものを、腐れオッサンのワタクシが見た場合、自身の子供自我をフル可動して意識的に没入して見るコツが必要と言いますか、逆にオッサンの知識を総動員して世界系構築物として見る必要があると言いますか、
「この気持ち、どうすりゃええんじゃい!」
というモヤモヤを抱えながらの鑑賞となるわけですね。

 いえね、ワタクシもともと「意味不明な物語」は好物だと思ってたんですよ。
「宇宙で黒い板とぶつかったら巨大な赤子でハイおしまい」って映画ですとかね、
「世界を救うためにロウソクともして温泉を歩けと狂人に頼まれて半信半疑で歩いてハイおしまい」って映画ですとかね、
「なんか知らんが巨大な自分の顔の気球が襲って来てもう逃げられないハイおしまい」ってホラー漫画とかですね、
意味なんかわからんのですが、それ以上の意味なんか求めずに心に刺さり、大変に面白く満足なわけです。
 ところがスッキリしない系宮崎アニメにおいては、
「これ、隠されてるんちゃうか。ホントは飲み物もデザートもおみやげも用意したフルコースメニューだったのに、作ってるうちに半分投げ捨てちまったんちゃうか」って不安な気持ちにさせるんですな。葛藤の結果、重要な物語性をあえて描かない事を選択した映画なのではないかと。もしくは、そんなことを重要だと思う立場に嫌気がさし、物語を辿る事に固執した読者を切り捨てるつもりで作られた話なのではないかと。

 長い。前置きが長い。

 で、当時の「監督引退作品」として出てきた「風立ちぬ」がですね、この「物語性か自由度か」「夢か現実か」という不安定な葛藤に、一つの答えが出た名作であると感じました。
 あいかわらず、いや今まで以上に意識的に現実と妄想の両方がぶち込まれ、生と死の曖昧な世界が描かれた作品なのですが、とても見やすかった。やはりスッキリはできない、あいかわらずスッキリしない読後感の映画ではあるものの、見終わって手にする「たしかな衝撃が心に残る満足感」は大きく、ゆえに見やすいのです。
「ひょっとしておれは、この映画に仕掛けられた大事な要素を、まったく読み取れていないんちゃうか」という無駄な焦燥を感じる必要がない。読み取れていない部分は多々あるだろうけれども、そこは未解決のままでも感動できる、という上手さ。このへんの事をちょっと、備忘録を兼ねて書いてみます。

見やすい要素
 一つ目の理由として、本作の歴史的時間軸がハッキリしている点ですね。主人公二郎の明治末期での少年時代、大正末期の青年時代、昭和初期の設計者時代、それぞれが、それなりの時代背景を描き込みながら展開されるので、読者が道に迷う事は無い。
(「それなりの時代背景」と言いますのは、決して「リアリティのある綿密な時代背景」ではなく、あくまで「登場人物の周囲に限定されたアニメ的時代背景」であるわけですが、おそらくこれは意図的に抑制された描き方かと思われます。この作品の主題が「その時代を上から目線で総括する」事に偏らないための。)

 二つ目の「見やすい」「道に迷わない」理由として、主人公二郎の声が挙げられますね。「エヴァンゲリオン」「シン・ゴジラ」監督にして声優ど素人の庵野秀明が演じているわけです。ど素人ですから棒読みですし、感情の起伏もない。(さらに言えばエヴァ制作で精神的に落ち込み、病み上がり状態での起用らしい。)
 そりゃ当然、いきいきした少年時代の子役から青年期の庵野声に変った瞬間「なんじゃこりゃ」ですよ。有名人ですからね、あのヒゲメガネ顔がスタジオでマイクを前にしている映像が見えちゃって見えちゃって、「えっうそでしょ無理ごめんなさい」感がすごいですよ。
 ところがですね、それにもめげず話が進み、物語内は震災が起き人々入り乱れ、復興の中で設計者として仕事を始め…となってきますと、だんだん馴染んでくるんですよ。見やすいんですよ。まわりのキャラが、それぞれいきいきと独自の魅力を噴出させているなかで、そこだけモノトーンのような庵野声を追うと、
「ここが主人公の声やで」
という事がハッキリ伝わって来て、見やすいんですね。そこにだけ、演技ではない「ただの本物の声」があるわけです。

 主人公感て、なんでしょうね。文学、ことに私小説や児童文学における主人公とは
「私」
に他ならず、この「私」が読み手である「自分」と、どれだけシンクロするか、というのがひとつの「のめり込まされ力」につながってきますね。
 本来、異なった人格であるはずの主人公と読者がシンクロするためには、そこに読者が入り込むための「器としての空虚さ」のようなものが求められると思うのですね。空虚というと語弊があるやもしれませんが、「自意識の部分は空虚に手放し、読者におまかせし、ただし無意識では強力な宿命や業(ごう)や正直さに貫かれている」といった人物像ですね。漱石の「三四郎」なんか、ドンピシャですわな。佐藤さとるの児童文学の主人公も、たいてい物静かな少年や、無口で実直な技術畑の青年だったりしますね。
 今回の「風立ちぬ」の二郎、このどうしようもない空虚さと正直さと業がヤバいほど詰め込まれ、強烈な主人公っぷりでした。ヤバいほど詰め込まれた結果「こんな変人に誰がシンクロできるかっ!」という文句が山ほど出るのはわかるのですが、スッキリできない宮崎アニメの変遷を経て、この主人公像に到達したか!という点でも感慨深いのであります。

 そして三つ目にして最大の見やすい理由は、これが切ない恋愛映画であるからですね。切ないと言いますのは、菜穂子の死を前提として始まった恋愛である切なさ。そして愛する人の死を身近に感じながらも仕事に没頭し、菜穂子もまた自分の演じるべき役割を全うする切なさですね。
 そこには死という明確な到達点が存在し、ラストに宿命のように流れる「ひこうき雲」を聞きながら涙せざるを得ないのですよ。ここにおいてもはや、物語の隠れモチーフですとか、世界の多層関係ですとか意味を成さず、すべて涙にて流れゆくのですよ。

葛藤と許し
 はぁ~。ええ話やった… というわけでここで終わっても良いのですが、この映画における
「葛藤」「スッキリしない部分」
について、あえて流し切らず触れてみたいと思います。

 まず、映画の中で明確であり、またあちこちのレビュー・インタビューでも触れられている事として、
「人殺しの道具である戦闘機を、喜んで作るとはどういうことか」
「死にゆく妻をほったらかしておいて、殺人道具の開発に没頭するとは何事か」
「平和主義者、環境保護活動家にして戦争機械大好きオタクのアニメ監督とはいかに」
という葛藤がありますね。
「ピラミッドのある世界と無い世界、どちらが良いかね」
なんてセリフも映画内に出て来ます。
 この問題についての主人公二郎の答えは「ぼく、美しいヒコーキを作りたい」であり、要約すれば「他人を犠牲にしても内なる衝動と美を追いたい、つーか、判断のしようがない。ぼく他の生き方できないっす。」って事ですね。

 試験飛行の機体が壊れるとき、二郎は、翼の中のどの骨がどのように耐え切れず崩れていくのか「見えて」いるんですね。普段無口な二郎が、ヒコーキの力学的な場において、言葉にならない言語でもって、雄弁に機体と会話してるんですね。
 そもそもこの映画通して、飛行機がぶっこわれ、墜落するシーンがすべてスゴイ。すごく雄弁。それは、人の死とか戦争の悲惨さとかにおいて雄弁なのではなく、力学的に限界が来て「もう飛べない」叫び、ヒコーキ語において雄弁なのですね。そうしたシーンをくりかえし見せているのは観客への説明ではなく、飛行機と技術者の会話のように見えるのです。
 つまりこの映画、普通の人間の言葉がわからん男、身近な他人への正しい配慮などできない、ヒコーキ語しか話せない無責任なガキである、ある阿呆の一生と、それを許し愛し演じてくれたある女の話、なわけですから、そりゃ切ない。ああ切ない。
 そして映画のラスト、夢の世界にて、菜穂子は二郎に「あなた。生きて。」と言い残し、消えてしまうのですね。

 この主人公二郎と監督宮崎駿のシンクロした葛藤・許しを観客としてどう見るか。この映画を公開当時に見た友人は、
「面白かった。アンノの声もアリだった。だけど、最後の「生きて。」はダメでしょ! 二郎が自分の夢の中で許してもらっちゃう、つまり監督が自分の作品の中で許されちゃダメでしょ!」
と言っていて、なるほどスルドイね、そうかもね、と思ったのです。が、自分で改めて見てみますと、まったくそこは気にならず、むしろ菜穂子が「生きて。」という事が、この映画の最大の意思表明にしてスッキリした部分だと思ったんですね。

 まず、ラストシーンの異空間は、本当に主人公二郎の夢なのか。
 普通に映画の時間軸を追う以上は、あれは菜穂子の死後、数年後に太平洋戦争が終わった時点での二郎の見た夢である、と見れます。が、確証は無く、違和感もある。(このへんの違和感は後述します。)
 ワタクシの感想としては、あのラストシーンは二郎の見た夢ではなく、
「戦争後の二郎の意識、死後の菜穂子、カプローニの三者が同時に存在する、あの映画の中での『現実』の出来事であり、それが夢か魔法か冥界なのかは検証不能」
といった感じです。
 つまり二郎への許しは二郎自身によるものではなく、他者である菜穂子からの「返歌」である、ということです。他者である菜穂子だからこそ言える許しであり、美であり、演技である、と。
 二郎と菜穂子が最初に汽車で出会った時、菜穂子が言った
「Le vent se leve,」(風が吹いた)
と、それを受けた二郎の
「il faut tenter de vivre.」(私は生きなくてはならない)
というスノッブな会話は、その後の二人の愛の生活を経て吹いた風と、風として去る菜穂子が二郎に返した下の句として収束して見えたのですね。この死をもってのテーマの完成と名歌「ひこうき雲」のリンクに、正直泣けたわけです。

 ラストシーンの異空間の前に、現実世界でのクライマックスとして、二郎が菜穂子の死を察する場面がありますね。おそらくサナトリウムのある山から、菜穂子の死を乗せた風が吹いてきたのを感じた。それはいままで二郎が話していたヒコーキ語による風ではなく、愛する人の喪失という人間語であり、その言葉を聞いた瞬間、おそらくはじめて二郎はヒコーキ語が耳に入らなくなった、というシーンですね。もう十分です。ここで終わっても十分泣けます。が、それではあまりに二郎が可哀そうという事もあるでしょうか、菜穂子の返歌を受け取る機会を与えたのですね。死者である菜穂子と会話をするためには、無数のゼロ戦死者による地獄の代償を歩んだ上での会合となったわけですが。それでも菜穂子と二郎の関係において、彼が許しを得ることは、正しいように思います。

 ただ、「宮崎駿による宮崎駿への許し」という問題は残りますけどね。これはホントにそうかもしれませんね。ただ、制作者にとって作品は自分自身なのか? と考えますと、いや、作品は一番自分を理解してくれている腐れ縁の他者である、という着地点も見えてきますね。

それでも残るモヤモヤは何か
 でもやはり何か変なんですよ。
「は~泣けた。面白かった。」と満足しつつも、やっぱりどうもオカシイんですよ。
 近年スッキリ見れない系宮崎アニメの中でも、より強烈にモヤモヤが残り、しかし、今までと違って、もうちょっと手を伸ばせば、このモヤモヤが何なのか解りそうなモヤり具合なのですよ。
 そして、モヤモヤポイントを追って行きますと、どうも「この話、どこからどこまでが夢なのか」という部分に集約されていくと思うのです。

 まず、この映画は堀辰雄の小説『風立ちぬ』と同タイトルであります。映画冒頭では、小説で引用されたポールヴァレリーの詩の一節
「Le vent se leve, il faut tenter de vivre.」
と、堀辰雄による小説内での訳
「風立ちぬ、いざ生きめやも。」
が掲げられますので、ここまでは「創作物である小説『風立ちぬ』の映画化」でも良いわけです。
 しかし、話はすぐに「飛行機乗り・設計士を夢見る少年二郎」の物語となりますので、「小説『風立ちぬ』をモチーフとした、別の物語」として立ち上がって行きます。しかもその少年の「夢」で映画がはじまり、「夢」で話が閉じる。
 この二郎の見た夢とは、なんなのでしょうか。えー、要はこれ、夢のふりをして、夢じゃないって事ですよね。

 二郎は強度の近視として描かれており、そのぶ厚いレンズを通してみた「ゆがんだ上で、ピントのあった像」が強調して演出されています。冒頭の夢の中で、眼鏡をかけず飛行機を操縦し、町の女の子たちにゴキゲンで手など振っていた二郎が、敵の出現と共にぶ厚いレンズをかける事で別の視界にピントが合い、とたんに飛行機は墜落します。
 レンズ越しに見た世界が「真実」なのか、いや並列した「虚構」なのかは置いておき、ともかく二郎にとっては最初から、世界の見え方は多層的で未確定なわけです。飛行機の持つ夢と兵器の二面性を、少年時代の夢の中ですでに実感しており、その時のピントの合い方で、世界はまるで違ったものになることを知っているのですね。

 夢からさめ、「現実」の蚊帳の中で起き上がった少年二郎は、「現実」の眼鏡をかけて庭を見渡すのですが、はたしてこれ、今度こそ現実なのでしょうか? 夢も現実も、しょせんはレンズ越しに見ているだけの「虚像」なのではないでしょうか?
 その後、生真面目で実直な少年二郎の日常が淡々と描かれるわけですが、これ本当に日常なのでしょうか。総天然色風な明るい光の中で、明治後期の農村・町の様子が描かれ、いじめっ子は何やら理解不能の不気味なはやし言葉、異世界語で喚いております。本を読みながら寝落ちした二郎は夢の中であこがれの設計士カプローニと語り合い、元気に「現実」で返事をし、やさしい母に起こされます。

 これら少年二郎をとりまく世界は、まさに「少年二郎の見た世界」です。夢にせよ、現実にせよ、もしくは「夢から覚めたけれど、まだ夢だった」夢中夢にせよ、究極の私小説とも言うべき
「二郎だけが見える世界」
を描いているように見えるのですね。

 さて、時と場所は変わり、二郎は青年となり、汽車に乗っています。この時点で
「あれ? ひょとして単に時間が流れたのではなく、今までの少年時代は青年二郎の回想だったのかな?」
とも見えるんですね。回想、つまり夢が終わり、ここから現実の話が始まるのかな~と。
 ところがそこで菜穂子と運命の出会いをし、前述の
「Le vent se leve,」「il faut tenter de vivre.」
の会話をするわけです。この会話が、また夢的なモヤモヤを湧き立てるのですよ。

 この映画内の世界には、ベストセラー小説『風立ちぬ』は存在するのか?いや、無いですよね。その小説をモチーフにした映画ですし、小説の発表は昭和になってからですし。
 つまり汽車の中で出会った二郎と菜穂子は、堀辰雄に取り上げられて有名になった詩の一節を知っていたのではなく、その元となるポールヴァレリーの詩そのものを知っていて、しかも「お互い通じる」という確信を持ってますよね。
 これはかなりドキッと、モヤッとします。
「その時代のインテリ層にとってポールヴァレリーのその一節は常識」だったのかどうか、私はちょっと知識不足ですが、二郎が返答した「il faut tenter de vivre.」を聞いた時の、少女菜穂子の笑顔、これ確信犯の笑顔ですよね。
「えっ、あなたも知ってた? おにーさん、インテリ~!」
て笑顔ではなく、
「うん、そうよね。」
っていう無言の笑顔。
 どうもこれがワタクシには
「うん、そうよね。一緒に人生を過ごしたあなたとわたしにとって大切な、この詩の一節。」
って笑顔に見えるんですよね。まるで、この映画のラストシーンの、さらに後の笑顔に見える。えっ、なにそれこわい。魔女ですか。

 その他にもですね、二郎や菜穂子以外の汽車の乗客の表情、震災後の人々の表情を見ますと、なにやら異質なのですよね。
 二郎と菜穂子だけが「世界の自我」を持っている。他の大勢は、二郎と菜穂子の事は目に映っているけど認識していないような、別世界のような独自の現実に生きている。
 はたしてこの世界は、今起きている現実の話なのか、過去の有名な事件を見ている記録映画なのか、主人公二人の自我だけの精神世界なのか、モヤモヤ、グネグネして、大変に気持ち悪く面白いわけです。
 ここにおいて、この映画の「見やすさ」の理由に挙げていた「歴史的時間軸がハッキリしている」という利点は、主人公二人の夢的自我視点においては脆くも崩れ去るのですね。

 二郎がヒコーキ作りにのみ没入し、実生活や他人に盲目的であるのと同様、菜穂子においては「二人の愛の数日間」のためには常識や他人の眼を無視し、さらには「二郎が現実を見てしまうこと」も無視し、最終的には自己の死への現実も無視してしまいます。
 立ち位置は違えど、やはり確信犯的二人、この二人の自我の前では、映画全体の時系列、夢空間の多層構造、どこまで夢でどこまで現実か、など、すべて「どうでもよいこと」であり、同時に
「そのように理解不能な多層性の中で、あなたはあなたの自我において生きて。」
という愛のメッセージであり、
「風が吹いて、生きねばならぬ世界とは、こういうものだ」
という共通テーマに回帰するような気がするのですね。

 二郎も菜穂子も、業と運命にしばられた、厳しく地獄のような現実の中に生きながら、その目線は常に夢的な理想・美・愛に向けられています。二人とも大胆で勇猛果敢な行動を取る人物ではありますが、それは現実に正面からぶつかっているというよりは、夢的言語話者であるゆえの盲目的突進と言えるのではないでしょうか。
 そうした夢的自我の抽出された世界が、あのラストへ続く異空間であり、カプローニもまたそこに同席しうる夢志向人間として登場しています。あの異空間は「ある時点での主人公の見た夢」ではなく、「死んだ者の魂が会合する場所」でもなく、現実世界に常に並走して存在する、思念にとっての本当の会話がなされる世界、と言えるのではないでしょうか。
 かなり宗教的ですね。だいたい、近年スッキリしない系宮崎アニメは、どれも宗教的です。ポニョの洪水後の世界も、風立ちぬの夢世界の描写も、あのドギツイ総天然色笑顔世界は、一種の宗教絵画的異質さを感じます。それらを「もう隠さんぞ。感じたままにワシ、描くもんね。」というのが近年の宮崎監督の意識であり、そのように隠さず描きながらも、他のストーリーや人物描写や時代背景に、それぞれの宿命を込めることに成功した結果、シンプルな感動に到達したのが、本作品の総括となるように思います。

過去への視点はどのように生を語るか
 もう一つ、うまく伝える自信がないのですが、この映画は「過去を振り返った作品」として鮮烈だったと思うのです。宮崎監督が自信のアニメ制作人生を振り返り、また近現代日本と戦争の時代を振り返った作品であることは見た通りなのですが、そこに「過去を向くとは、なんぞや」という普遍的な問いと、作品としての好例が示されていると思うのですね。
 大河ドラマなんかですと、過去の一時点に観客を連れて行き、そこから「今はじまった事」として、主人公の成長に付き添わせますね。ところが映画「風立ちぬ」においては、一見そうなっているようで、そうなってないんですね。
 ラストシーンの異空間にてカプローニと再会した二郎は「ここはあなたと初めて会った場所ですね」と言っています。これは場所の事を指すのみでなく、おそらく時間においても一致・もしくは時間を無視し、「少年時代の最初の夢の時点で、無数のゼロ戦の屍が存在する場所に二郎は居た」と感じられます。「最初の出会いの時に、すでに二人の人生を知っているかのような菜穂子の笑顔」と同じ感じです。映画・アニメ・小説に限らず、作品に没入して観るということは、当然、その場面場面の時空間に「本当にいる」気持ちにさせてくれるのが大事ですが、ことこの作品に限っては、「ええい、その場面没入型の冒険活劇は今回はもうええ、今回はジジイになったワシが、語っておかにゃならん話なのだ」という意識から逃れられないように見えるんです。
 やはり昭和の戦争の事を語る以上、その共通意識は大きいですよ。どう描いても映像の20世紀的な、その時歴史は動いた的な背景が脳裏をよぎり、下手すりゃアニメに実写記録映像重ねる手法もありかな?みたいな全体像を想像しちゃいます。が、映画「風立ちぬ」のスゴイところは、「過去の時間を振り返って再現しているようで、誰がどこを振り返っているのかわからない」ところであり、駿じいさんが振り返りたかったのは、己の創作人生の総括ではなくて、その場その時に存在し、そこにしか存在しえない生きざまなのでしょうな。歴史を扱ったドラマで、時間にそった人物の成長が何もない、結局その時代の総評が何も伝わってこない、こんな味わいの話って今まで無いと思うのですがどうでしょう。

 最後に、小説『風立ちぬ』の話をば。
 堀辰雄の小説では、死に近づき衰えゆく「節子」のそばに、しっかりと主人公「私」が付き添っているのですね。そうして、死にゆく節子の心とシンクロすることで、周りの世界が(自然が)新たに美しく見えるのだ、というような心境を描いています。アニメ「風立ちぬ」とは、かなり違います。まあ、アニメと違い、小説の「私」は自身も結核に罹患しているゆえ、いっしょにサナトリウムに入るわけですし、小説家である「私」は他の人物以上に人間語をこねくり回す男でもあるわけです。
 この昭和初期のベストセラー小説の中に立つ「私」は、愛する者の死と自然を前に得たものを作品として書こうとするわけですが、平成のベストセラー監督である宮崎駿は、死にゆく菜穂子を二郎には見せず、二郎の内面も言葉にしません。小説では、死と寄り添いながら美が立ち上がっていく過程がヒリヒリと描かれるのですが、アニメでは、人間の死と美とは関係が無く、むしろヒコーキの死をもって描くばかり。
 ラストシーンの異空間において、はじめて二郎はヒコーキの死と人間の死が一致した世界に立っているのだと思いますが、この期に及んでも自分の言葉で人間性を語ることはなく、ただ「ありがとう。ありがとう。」と言うことしかできないのですね。いや~、この時の庵野声が本当に良かった。愛する女性が時空を超え、純粋な笑顔で許しを与えて消えていくというのに、「ありがとう。」しか言えない、このデクノボー感、ダメ男の魂の声、というものが、まったくもって真実として伝わってきました。何も成長などしていない、人間的成長などはなから意識していない。この瞬間、アニメ「風立ちぬ」は小説『風立ちぬ』の持つ崇高さから奈落へ転げ落ち、同時に小説では描くことが不可能な、残された男の真実の嗚咽を表現するに至ったのですね。むぅむぅ。
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コフン

 ここ一年ほどは週4日勤務の資料館の仕事がタイヘンに忙しくなってしまい、週4日の中に8日分くらいの仕事をギュウギュウに押し込めて進行しておりましたところ、反比例的に週4日が1日くらいにアッシュクして感じられ、気が付いたら年が明け桜が散り、楽しみにとっておいたブルボンガトーレーズンが味もわからず食いつくされておりました。
 ちなみに我が家ではガトーレーズンの事を時にダポウレーズンと呼んでおり、これは何かで一時、ハトの言葉を真似して
「できたポゥ。」
「そうだポゥ。」
「ダッポゥ ダッポゥ。」
などと言っていたことから来ているのですが、そんな家庭内言語の語源などすぐ忘れ去られ、忙しい仕事が一段落し、やれやれと戸棚を漁った時に自らの口をついた
「ダポゥが無い」
という一言に
「ダポゥって何だっけ」
と自問する、もはや「何が無いのか何だっけ」という大変に混乱した心境に陥ったことからも、過日の激務が推察されるところであります。

 さてギュウギュウに押し込めて作業していた内容とは、勤務先自治体の歴史を書籍にまとめるお手伝いでありまして、ワタクシはもっぱら考古学の範疇にあたる資料のデータ化、編集などを行っておりました。図がいっぱいあるんで、やることがいっぱいあるんですね。
 毎日そういた資料を見ておりますと、自分が掘り出したわけでもなく、研究者でもない者の目にも、次第に流れのような物が見えてまいりまして、
「もっぱらこの地域はこういう物が当然出るのだな」
とか
「この分野の研究者は、この部分に注目して全体を捉えているんだな」
とかの「素人にちょっと毛が生えた視点」を獲得してまいります。
これが端的に言って、非常に面白いのですね。
第一線の研究者の方々のお話・原稿・作業に無理無理食らいついて行きますと、「ちょっと生えた毛」フル活動にて多少なりとも現在の問題点を共有することができる。楽しい。
 本来はこうした食らいつき方を学生時代にやることが、教師陣に対する最低限の取るべき態度、がんばり所であったと思うのですが、もはや手遅れの数十年前の自分を叱咤したい。大学一年からやり直したい。どうせなら高三の夏に台所でプリンス聞きながら一人で踊ってたら床を踏み抜いた時からやり直したいっ。というかなわぬ焦燥を感じる事ができるなんて学問ってすばらしいですね。

 などと久しぶりにシミジミした日々を送っておりましたら、電子レンジの掃除をしていたはずの妻が「コフン…コフンが…」と何やらブツブツ言っておるのですね。
 何、古墳。古墳がこのあたりにあるはずがない。
 だいたいワタクシの獲得した毛の生えた知識によれば、このあたり崖線沿いは縄文晩期、弥生、古墳時代通じて人々の営みの痕跡がほぼ出ておらず、より南方の多摩川低地にどうたらこうたら…と思いながら台所へ行ってみますと、
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ありました。コフン。

 表土を剥ぎ取りますと、見事な前方後円墳が。
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 この墳墓がグルグル回ることにより、黄泉の世界と四世紀の豪族エネルギーが時空を超え、食品を温める仕組みですね。
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「あなたの英語発音のために」

大阪のヒグチさんが書いた英語の発音解説書にイラストを付けました。
電子書籍の体裁にてアマゾンで販売しております。
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あなたの英語発音のために Kindle版
樋口 久 (著)

長年英語学畑で仕事をされてきた膨大な知識量と、その斜め上をいく軽快な語り口調・リズム感でもって彩られ、英語学習に携わる人もそうでない人も、必読の一冊なんではないかと思っております。

だいたいワタクシ世代は、学生時代の英語授業において、発音というものがほとんど重視されてこなかったと思うんですね。正しい発音か間違った発音か、ということ以前に、「言語というものの本質」としての発音に、ほとんど留意されてこなかった。単純に言ってしまえば、学校で教わる英語というものは、入試用の読み書きに対応した知識系スキルであり、「言葉とはなんぞや」という根本なぞどーでも良かった、つーことでしょうかね。
言わずもがな、言語とは本質的に、目の前の相手との音声を使ったコミュニケーションであり、また音声を発し、聞くことによって成立する思考のプロセスでもあるわけですよ。してみると、発音の意識無くして英語を考えることなぞできない、ましてや英語で考えるに至ることなぞ到底できない、ちゅーことではないでしょうか。

そこでヒグチさん、わかっています。完全にわかっとります。「どれが正しい発音か」ではなく、「細かく見ていくと、そもそもどんな音が出ているのか」「なぜそんな音を出すのか」「いつから誰が出しているのか」といった背景まで、丁寧に解説してくれています。本書内でも言及されていますが、ほぼ「楽器の演奏」に近いですね。「音が出てりゃいい」ってもんではなくて、「どんな音をどう出すか」という細かーい部分に、すべて意図と背景があって、それが身体感覚として馴染んでいるのが言葉なのですね。
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さて英語の話とはいったん離れますが、思い起こせばワタクシがヒグチさんとお知り合いになって、はや20年程になります。当時、ブログもツイッターも2ちゃんねるもない時代に、インターネット上のとある議論の場で、偶然ヒグチさんの書き込みを目にしたのですね。これがあーた、面白かった。センシティブな話題でケンケンガックガクする場において、一人、ノホホーンとお調子者の酔っぱらいのような語り口で登場し、いつのまにか交通整理、有益な情報と視点の提案、笑いのムード作り、相手のケアまでなさっておる。「何者ぞ。」と思いまして、ワタクシ、ブシツケながらメールにてファンレターを送ったのですね。(当時のネット上では、わりと皆様、本名やらメールアドレスやらを公開の上で語り合っておったのです。)
以来、こちらから拙いマンガ原稿をお送りしてみたり、先方よりおいしいワイン、落語のカセットテープ、種々趣味の音楽談義など頂きまして、大変に面白おかしい関係を長年築かせていただいております。

実際にお会いしたのは一度だけ。用事で東京に来たヒグチさんと、明大前の沖縄料理屋で一晩飲んだ、それだけでございます。何を話したのやら今となっては泡盛の彼方ですが、とにかく愉快でノリノリであった、という事だけ覚えています。話題が何であったのかというよりも、実に快適な即興演奏にてウマが合った、という印象でございます。演奏、ということで言いますと実はヒグチさんは鍵盤もポロンポロリンと見事に弾きますし、ドコンズカダンとハイレベルなドラムも鳴らします。(ヒグチさん所属のプログレバンド「九九五式音楽戦車」はこちら。http://995.sblo.jp/ )

してみますと、やはり演奏なのですね。身についたリズムとブレスを駆使し、見事な即興演奏を相手と繰り広げる。もちろん、知識と蓄積、事前の準備、内容の吟味などが無ければ人に伝えるべき中身は整わないですが、「何を伝えるか」と同じ重要度でもって「どう伝えるか」がずどーんと立ち現れる。「どう伝えるか」でもって、次に伝える内容も変化してくる。

20年という距離、もしくはそれ以上の過去を思い出して、他者と自分の言語コミュニケーションを考えてみますとね、遡れば遡るほど、「何を伝えるか」ばかり重視していたように思うのですね。早い話、同じ趣味を持ったやつは友達である、と。重要な情報を与えてくれる友達は、より価値が高い、と。「そんな事を知ってるなんて、すげえ!」という力関係は、粗野な小学生社会の中にしてすでに確立していたような気がします。これは一種の魔術ですね。「〇〇についての話を知るには、あいつから聞くしかない。あいつだけが、〇〇の価値を教えてくれた」という、新しい世界を見せる魔術。

年月を経て歳をとればとるほど、魔法は解け、「そこにしかない」と思っていた情報が、より巨大な「森羅万象の価値体系」だったと知ります。そこにおいてはもはや、「全部すげえ!」としか言いようがない。すべての情報に先行研究と解決済みの問題と未解決のテーマがあり、膨大な数の先人と現代人がアクセスし、休むことのない情報伝達・交換相互作用が行われている。気が遠くなります。
その中で、「ああ、あなたの話は、大あらしの中で道を照らしてくれるカンテラのようだ」と感動する瞬間というのは、「どう伝えるか」の技術無しには出現しえません。

不思議なことに、この「どう伝えるか」の技術にまやかしは効かず、話し手・書き手のセンスと本音が必ず現れてしまうと思うのですね。つまり、サギ師がどんな巧みな口調で語ったとしても、やはりそこに騙そうとする特徴が出てしまうと思うのですね。口調の技術においては。
一方で、原初的な「〇〇の話は、あいつから聞くしかない」魔術は、成熟した社会の中でも、形を変え、まだまだ有効に見えるのです。つまり、「この話は、ここでしか聞けませんよ」というトリックは、武器として、経験豊富な大人相手にしばしば通用している。恐ろしいことに。「はじめて聞く良くわからない話を、なぜかホンモノだと思ってしまった」という落とし穴。これは「巧みな口調」に騙されたわけではなく、「はじめて聞く、そこにしかない情報」に騙されたのだと思うんですね。

さらに恐ろしいのは、この「はじめて聞く、そこにしかない情報」が、「真実」である場合もあるということですね。「真実」というと語弊がありますが、「その情報の世界を進む限り、真実であるとしか判断できない」場合ですね。「騙された」と言い切れるためには、戻ってこれる「正しい世界」との対比が必要なわけですが、その対比のしようのない、相手の出す情報のみで世界が構成されているような閉じ込められ方をしますと、それはもう「真実」なわけです。魔術ですね。善悪ではなく。

なんの話でしたっけ。そう、ヒグチさん。わたくし、ヒグチさんからおせーてもらって、はじめて「志ん生」の落語を聞いたんですね。いや~すごい。こりゃあすごい。何がすごいって、ゴニョゴニョと何を言ってんだかわからない部分でも、人物のキャラ立ちと心情がビッシビシ伝わってくんですね。そして涙腺がゆるむ。録音され、繰り返し語られる架空の話に、涙が流れる。下手をすると、虚構だとわかっているがゆえに、より深く深く感情移入してしまう。なんでしょね。
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モップ

大晦日おめでとうございます。
今年撮った写真をパラパラ見返しておりましたら、
夏に井の頭公園内の動物園に行った時のものが出てきました。

我が家は夫婦とも、かろうじて絵筆を持つ機会がありますので、
こうした気まぐれな見物というものが、
「何かイラストの参考になるやもしらん。」という名目で
正当化されることが多いのですね。
良く知らない動物などというものは図鑑で見ただけではとらえきれず、
目の前で発する存在感を感じ取ってこそ、真実の姿に近づける。
そんな気がいたします。

モルモットと触れ合えるコーナーがあるというので
「よろしい。真実のモルと触れ合ってみようではないか」ということで
小学生の列に混じって、不審な中年夫婦がもぐり込んでみました。
moru1.jpg
モルモットというのはハムスターより大きくウサギより小さく、
実に中途半端な大きさで、ただウゾウゾと箱の中で群れているのですね。
そこから「では、コイツ」と任意の一匹を取り出だし、
ヒザにのせて触れ合うことのできるハートのウォーミングな平和空間なのですね。
moru.jpg
平和なモルの真実。
moru2.jpg
ああハートウォーミングなモルの真実。

というか、基本的にコイツたちは、無抵抗なのですね。
巨大な未確認生物に乗せられようが、連れ去られようが、
もっぱらの関心は「足場が悪いと、ちょっと落ち着かない」程度の鈍感力。
過剰にセンシティブな現代社会の中で、見習いたい性質でございます。

園内には他にも
risu.jpg
おじさん顔のリスが体によじ登ってくるコーナーや
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公務員顔のペンギンが暴れまわるコーナーなどがあり、
なかなかに多くの動物たちの真の雰囲気を体得できる
素晴らしい園でございます。

このペンギンたちの居場所には
大きく半円形に作られたプールがあり、
ビュンビュンびょんびょんやつらが泳ぎ回り、
なかなかの迫力があります。
派手な動きが目を引き、観客も多い。
「おとうさん、ペンギンだ!」と小さな男の子が走り寄って来ます。
まさに子供にとってペンギンの真の姿が、脳裏に焼き付けられる瞬間です。

「あっ!」男の子は続けて声を上げました。
「モップだ! おとうさん、モップが浮いてる!」
見ればペンギンプールの隅には、たしかに1本、掃除用のモップが浮き、
ゆらゆら波に揺られています。
「モップだ! ねえ、モップが浮いてる!」
父親は「そうだね…」と気のない返事をしています。
子供の情操教育が思い通りに行かなかった失望の声でしょうか。
しかし、男の子にとっては「モップが浮いてる!」ことこそが
真のペンギンの姿として、この日、強烈に体得された価値である。
これこそが、ペンギンの実存主義というものである。
ということではないでしょうか。よくわかりませんが。

真冬に夏の話を思い出すのは良いものですね。
あの日の熱、動物の匂い、午後のスコールなどを思い出し、
キーボードを打つ手が一瞬、夏の気温を感じ取るような気がします。

さて、そんな今年も終わりでございます。
鏡餅の準備もバッチリできました。
mikan2.jpg
新年はすべてにおいて真実の姿を追求する意気込みで臨む所存でございます。
みなさま良いお年を。ゴーン

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朝顔


朝顔に
  つるべ取られて
     ぶち切れる

…朝の忙しい時間ですからね、こうなりますね。もう、ブチブチむしり取って、顔、洗いますね。


やせがえる
  負けるな一茶
     ぶち切れる

…賭けてたんでしょうね。一茶、相当賭けてたんでしょうね。


やわ肌の
  熱き血潮に
     ぶち切れる

…別の意味で、ぶち切れちゃったんでしょうね、鉄幹。


名も知らぬ
  遠き島より
     ぶち切れる

…リフレッシュ旅行だのなんだの言っても、ストレス抱えたままじゃ、こうなりますね、ええ。

  — 古典短気入門   完 —

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ぼんぼり高校の思ひ出

 更新せぬまま月日流れ、諸々何かが明けましておめでとうございます。
 本年、わたくし年男なんでございますが、「三歩、歩いて忘れるニワトリ」の如きは日々当然として、三百歩歩いた頃にフト思い出して「そろそろやるかな」的な時期外れの鶏鳴響かせるあたりが、酉男の困ったところではないでせうか。

 で、そろそろやるかなと思い出しましたのが、架空学校「ぼんぼり高校」の総括でございます。
 これは、かつて高校生だったモノドモが、今一度「高校生としての時間感覚」で3年間を送るという壮大かつ蒙昧なる実験でして、物好きな企画に賛同していただいた約15名の年齢不詳者により平成25年4月にスタート、昨年3月に無事3年間が終了し、めでたく卒業という事で幕を閉じました。
 さて、この遊びはいったいなんであったのか、という話でございます。

 そもそもの発端となりましたのは、わたくしのリアル高校時代からの腐れ縁、いつもの蒙昧野郎4人組です。まあ、高校時代の旧友とのつきあいなんてのは、特に何を振り返るでもなく、何処かを目指すでもなく、ただ凡庸に毎年顔を突き合わせるのみ…そんな程度のものでございますね。
 とあるその年は、卒業後何十回目かの真夏の集まりに、「合宿」などと称してメンバー1人の部屋に押しかけておりました。合宿であるならば課題を決めよう、よしおれは作りかけの〇〇を仕上げるぞ、ぼくは□□の問題集を解くぞ、朝おきたらいっしょにジョギングに行くかハハハ、などと数日遊び、最終日の午後、ボーと茶など飲み、話していたんですね。夏空高く、公団の高層階を吹き抜けるさわやかな風の中で。
「はい。」「ハイ、カイヤくん。」

「これ、合宿やってみて、それなりに面白かったけどさ」「うん。」
「終わってみりゃ、いつものボーっとした、ただの集まりだよね」「まあね。」
「それを言っちゃあ、だいたいあーたがた、昔から理想の合宿てえのを妄想してたじゃありませんか。山奥の別荘買って、各自集まれるときに参加し、真摯に課題に取り組む。あるものはピアノを練習し、あるものは漫画を描き、あるものは詩を書く。最終日に成果を発表しあい、またそれぞれの生活に戻っていく…」
「そうそう。そーゆーのを期待してこうやって遊んでみてもね、なかなか本気でやるのが難しい。」
「あれですな、やはり女子の参加が無いからですな、女子の参加が。無いからですなっ。」
「で思ったんだけどさ、単発で合宿やっても、ハイ遊んだ、ハイ終わり、ってなっちゃうから、もちっと長期間で考えてみない?」
「ほう。」
「もう丸ごと3年間『高校』って事で、実際の時間にそって高校生としての行事をやってくの。どう。」
「いい歳したオッサンどもが、いまさら高校生のフリをして…」
「あたたたたたたたたた」
「途中で発生する遠足やマラソン大会なんかも、すべてこの『高校』のスケジュールとして組み込める。で、とにかく3年間、高校生としての時間を過したら卒業を迎え、結果がどうなろうともこの企画はいさぎよくオシマイって事にする。」
「文化祭の準備はぜったいやりたい! 女の子と文化祭の準備を…」
「まあ、よろしいんじゃないでしょうか」
てな感じのやりとりの上で、計画がはじまったものなんですね。

 さて、当初悩みましたのは、誰を誘うか、という事でございます。
 何しろいい歳して今更の高校生ごっこというイタさ、どこまで実際のイベントを行うかの不確実さと面倒くささ、「気持ち」だけ高校生で3年間すごすという内向的な曖昧さ、と志が低いわりに、なかなかに勧誘のハードルが高いのでございます。

「貧弱にして不明瞭な遊び企画に、それでも真摯な精神にて接し、かつ面白がってくれて、全体の結果がどうなろうとも、個人として何かの結論を勝手に得て良しとしてくれる人。
 そんな人、参加してくれへんかなあ…」
という、はなから主催者としての責任放棄な願望でもって新入学生を考えておったんですね。
 結果、ええいもうアレコレ心配するのはヤメだ、おのおのの知り合いの中から、それぞれ物好きそうな人物数名に声をかけ、あとは始まってから考えれば良かんべ、という事にしまして、その名も「ぼんぼり高校」は開校したのでございます。

 始まってみますとね、偶然といいますか必然といいますか、実に「ぼん高生」らしい方々に、「ぼん高生」らしいスタンスでもって参加していただきまして、ホクホクホクという感じです。
 実際の活動の記録は、「ぼんぼり高校」のサイトを残してありますので、こちらからどうぞ。
https://sites.google.com/site/bonborikoukou/

 あらためて振り返ってみますと、まさに目論み通り
「全体の結果がどうなろうとも、個人として何かの結論を得て良しとしてくれた」殊勝な学生諸君、
仕掛け人の勝手な価値観などは凌駕する生き様でもって3年を過し、卒業なされました。
 わたくし個人としましては、文芸部的なアレをでっちあげまして、文化祭的な妄想のなかで文芸部誌・漫研会誌的なヤツをナニしまして、くずラノベ崩れ的な駄文をこねくり回したりしてとても楽しかった。
 →文芸部誌「凡藝逡巡」第1号・2号・3号

 また、遠足と称して、個人的興味の武蔵野台地・多摩丘陵の地形変遷的ナンヤカヤに、他生徒を巻き込んで都合3度引きずり回したりして、非常に楽しかった。
 →1年生春の遠足レポート
 →2年生春の遠足レポート
 →3年生春の遠足レポート

 各々の「ぼん高生」の活動、無謀な目標から、堅実な展望から、自堕落な学生生活までそれぞれのアプローチにてとても面白い。
 三年後に設定した卒業時の目標をモノの見事に実現して、新しい生活に入った方などもいてとても眩しくうらやましい。
 はい。
 しかし、「ぼんぼり高校」として、3年間の後に何が残ったのか? と考えますと、これはまた、なかなか難しい。

 メンバーはお互い、最後まで顔も知らぬまま、という人も多いですね。
 年齢も職業もバラバラの方々にて、共通点としては「かつては現実の高校生だった」という一点のみ。
 それぞれの多忙な現実生活と並行して、意識のみの学校「ぼんぼり高校」は、はたして本当に存在しえたのでせうか。
 本物の高校生活に、わずかながらにも集団として拮抗しえたのでしょうか、という問題です。

 あらためて考えますに、高校時代を高校時代たらしめていたものは、やはり一種の「強制力」だったように思うんですね。
 もちろん義務教育ではありませんので、「好きで入学した」事に変わりはないのですが、毎日の学校生活を成立させていたのは、紛れもなく「めんどくさいけど、行くしかない」という選択肢の無さであり、「来たからには、何か面白いことをねじ込んでやろう」という、強制力を乗り越えた上での創意工夫、というものだったように思います。

 同世代のピリピリした連中がほぼ毎日顔を合わせ、やらなければならない義務と、つぶさなければならないヒマを共有する。ニホンの学校制度がどうこうとか、旧き良き青春がどうこうとか、個人として判断する立場にはまったくありませんが、こうした不自然な強制力ゆえに生み出しえた価値、というものが、現実として表出されていたのが、現実の高校生活だったように思います。

 あれですよ、
「今度の全校集会で、図書委員会からの『蔵書大量紛失の注意』をしなけりゃならんのだが、司書の先生から『なんとか全校生徒にガツンと届くようにお願い。』と言われてるわけだが、え、どうだいツチヤ君、ここはひとつおれたち二人で寸劇の形でだな、委員長であるおまいさんが壇上でマジメに話しだしたところへ、下手から『てーへんだてーへんだ!』とおれが駆け込み…」
みたいな、やらされてるんだが好きでやってるんだかわからないグルーヴ感というものが、たしかにあったわけですね。

 それで、ぼんぼり高校なんですが、「始まっちまえば、友が友を呼び、『面白そう面白そう』と大所帯になっていくであろう。ムフフ」とか安易に思っていたのですが、そうはなりませんでしたね。結局、最初に声をかけ、参加していただいた方々のみにて卒業を迎えました。
 なるほど。なるほどですよ。良い歳した強制力ゼロの企てに、ロクすっぽ営業も宣伝もしなければ、学生が増えることなんざ、ありゃせんのですよ。そりゃ当然ちゃ当然なんですがね、なんといいますか
「種さえ蒔いておけば、いつのまにか予想外の花が咲いて実がなってグフフ」
みたいな他力本願な願望ってのが、わたくし始め、初期企画メンバー腐れ縁友達の中に脈々と流れる、怠惰な大河といった印象なのですね。

 誤解を恐れず言えば、ただの個人的怠けグセにしか見えないこの集団依存の「怠惰な大河」ってものがですね、ひとつ、世代とか時代とかと関わった「観察眼」なのではないかとも思っているのですね。はい。
 こーゆーの、何か良い言葉がありましたっけ。「世界を前にした、自我の立ち位置」みたいな。
「世界は前提として観察対象であって、そこに働きかけるかどうかは後日の問題である」みたいな。
 もしくは、もうちょっと積極的に語るとしても
「世界は前提として観察対象であって、すべての行動とは、観察によってもたらされる自己および世界の変化に他ならない」みたいな。
 なんのこっちゃ。

 観察を前提とした立ち位置、なんて言いますとカッコつけてるだけですが、要は行動力の無い受け身体質。それをズーズーしくも「世代・時代」と意味づけしようとすると、恐ろしくもまるで
「ワシらの世代の連中は、みんな観察ばっかしてて、行動せんのじゃよ。ホッホッホ」
と言ってるかのように誤解されそうですが、そうじゃあないんす。ワシらの世代にも、行動力重視の方々もたくさんいるんす。

 そうではなくて、えーむずかしい、そうした行動力重視の方も含めて、なおかつ世界の見え方としては「観察が前提で、行動は別問題」みたいな相対感覚が、受け入れ可能なものとして共有されていたんじゃないかな、というナイーブな印象なのですね。
 クラスの中のスポーツ万能君も、ネクラ窓際君も、同じ空気を読み取った上で行動したりしなかったりしている、という拘束力。傍若無人なヤツも、気の弱い注意深いヤツも、少なくとも同じスケールで観察可能だった相対性。その共有感覚によって読み取られてきた映画・小説・漫画などの作品世界・物語世界が存在しえた、長期的な世代があったのではないかな、とまあ、そーゆーところに行き着く印象なのですね。

 そういった「共通の観察眼があるからこそ、いろんなヤツを強制的にブチ込んでも成立した高校時代」てな大ザッパな古い感覚が、わたしの中にあります。で、いい歳した現在、遊び企画にて高校ゴッコをやるにあたり、やはり「共通の観察眼」は充分にある。若い時以上にある。逆に「強制力」は無い。若い時以上に無い。いい歳した遊び企画において、もはや「これが校則です」とか「遠足はゼッタイ全員参加」とか言えないわけですよ。現実の高校生活にあった「ブーブー文句をいいながら参加した上で生まれるワクワク感」とか、今はもう、手が届かんわけですよ。
 それについては、もう、あきらめます。そこにおいて現実の高校生活と張り合うのは「ぼんぼり高校」の在り様に含まれず、ということで、ただゆるやかに、グズグズとぼん高は幕を閉じていったのであります。

 ただ、「ぼんぼり高校」においても、現実の高校生活とまったく同じ強度でもって、強制的に生徒全員にのしかかった要素がひとつだけございます。
 それは時間ですね。
 3年間という時間においてのみ、確実に、過去の高校生活と同じ強制力であったわけです。
「いやいやいや、同じ時間には感じないよ? 歳とると、時間が過ぎるの速いよ?」とか言いたくなりますけどね。同じ強制力下にて、違う時間の流れを感じてしまった事こそが、まさに共通の観察眼による変化の観察と言えるかもしれませんね。
 そんなわけで、
「うそだろ… 本当にこれで、過去の高校生活と同じ3年間が過ぎたのかよ… 何も言えねえ…」
などと次元の狭間に落っこちたかのよーな虚無感に襲われでもすれば、ぼんぼり高校の存在意義はあったんじゃないかと、こう、思っとるわけでござんす。

~~~
 さて、「ぼんぼり高校」の総括については以上なのでございますが、途中、「共通の観察眼」だとか「その共有感覚によって読み取られてきた映画・小説・漫画などの作品世界・物語世界」だとか、余計な文言をひねくり出して語らざるをえなかった理由としましてはですね、実は、最近見ました、ひとつの短い映画の影響がございます。

 映画好きのタクチンにおせーてもらって見た
「そうして私たちはプールに金魚を、」
という30分足らずの短い映像作品なのですが、女子中学生が学校のプールに大量の金魚を放して夜中に泳いだ、という数年前に埼玉で実際にあった事件を描いた映画なのですね。
 これがアメリカの権威ある映画祭で賞を取り、国内・海外とも大絶賛の評価。「これが青春だ」的な「これこそ退屈な自分の町だ」的な「私たちのための映画だ」的な「とにかくエモい」的な、評論家、漫画家、一般観客の評価などすべてがベタボメなのですね。
 で、「なんたる面白そうなシチュエーション!」と思って前のめりで見始めたこの映画から、わたくしなんとしたことか、何ひとつ味がしなかったんですね。むみー。

 イナカの女子中学生らしい人物は出てくる。閉鎖的な町に、そして世界まるごとに退屈してそうなセリフも吐いている。その年齢と友人との間でのみ存在するであろう熱を発した行動もとっている。
しかしですね、観察できないのですね。見ても聴いても、彼女らの心情がまったく読み取れないのですね。なんぞ。

 いえね、アラフィフの腐れオヤジがJCの青春映画の心情を読み取れないからって、なんら文句のつけどころは無いわけですよ。ですが、「心情が読み取れないまでも、そのディスコミュニケーションごと共有可能とする共通の観察眼」といったものが、すでにしてまったく存在しない映画だったんですよ。
 ゴーン。
 これは、「あんたは観客対象年齢じゃねえんだよ」と言われた以上のショックでして、「共通の観察眼をベースに作品を作る時代は終わったんだよ」と言われたような、次元のはざまホーリコマレ的ショックを受けたのでございます。

 この映画が「エモーショナルな青春映画」ということで受け入れ可能な2017年という時代が、いったいどういうものなのかという事については、混乱の中にいるわたくしはマッタク考察ができません。
 おそらく、「作り手と受け手の同質化」ですとか、「物語時間の無意味化」ですとか、「情報過多時代の『本物』と『作り物』」ですとかのキーワードでもって語られるべき作品論となるのでしょうが、あまりに手ごわく、今から寝しなの冷凍エビピラフを食べるのにも忙しいものですから、またいずれ。
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新ゴ

お盆前、くされ縁の旧友4人で集まった日に、
『シン・ゴジラ』を観てきました。
映画通の友人の
「こりゃアンノの最高傑作だべさ!」の進言に触発され、
立川の音の良いシアターのどまん中に
おっさん軍団、どっかと陣取りました。

予備知識はゼロ、歴代ゴジラもハリウッド版も
なーんも見たことが無いワタクシでしたが、
唯一、今回のキャッチコピーである
「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」
というのに、心惹かれまして。
「現実世界のニッポンの日常と、
 虚構世界の悪夢的ゴジラが、
 次元の異なる、メタメタな戦いを
 繰り広げるのであろう。ウフフ。」
と期待したのですね。

ドドーンと重低音とともに怪物が上陸し、
たちどころに惹き込まれました。
CGが上手いのか、カメラワークが上手いのか、
とにかく「ほんとうに奴がいる」感じが
画面からバンバン伝わってきます。
片や対応する政府・役人の立ち居振る舞いがこれまた際立っており、
「ぼく、総理会見でどこまで言えばいいの?」とか
「しまってあった防災服、出さなくちゃねえ。」みたいな
全力にして無意味な緊迫感が、たいへんに心をくすぐる。
まさに期待通りに次元の異なる「かみ合わない戦い」なのです。

言わずもがな、これは東日本大震災にてニホンジン経験済みの
「かみ合わなさ」なわけですね。
大規模自然現象が街をドドーと飲み込み、
量子力学的崩壊がウワーと野山を駆け巡ったあの日。
超越的にして無感情の現象を前にして、怒りや悲しみの受け皿は存在せず、
宙ぶらりんの心情のまま五年半が過ぎた、というのが
今日の正直なところではないでしょうか。
「あの日を忘れない」という気持ちは表せても、
「そもそも何だったの、アレ。
 何がどんだけ悪くて、どこまで仕方がなかったの。」
という根本的な出来事の衝撃度については、
現実の言語では、処理できない。
ゆえに、「忘れてはならない」という言葉の裏には
「なかったことにしたい」という潮流が
とうとうと流れておりますね。
話のかみ合わない相手(出来事)は
現実の生活の中に存在して欲しくない、という拒否反応を
おそらく誰しも持っています。

その見たくなかった根本、
話のかみ合わない大きな存在を、
東京の街ん中にドーンと出現させて、
「はい、こういう事でございます」と映像にして見せたのが
今回のシン・ゴジラの到達点でございましょう。
何をやっても効果が無い、まったく話の通じない敵との対峙っつーのは
エヴァンゲリオンでさんざドギモ抜いたアンノ監督の真骨頂とも言えますが、
震災後・実写・シミュレーション的演出ということで
過去のアニメーション作品以上にドハマリしていると思いました。
考えて見れば「実写映画」というものこそ、
現実と虚構のせめぎ合いそのものですしね。

~~~

そうして映画的絶望に心地よくひたっておったんですが、
終盤が近づくにつれ、何かがおかしい。
見事であったはずの絶対的対立が、だんだん偏ってくる。
つまり、話が通じない相手であったはずのゴジラさんと、
結局それなりに話が通じてしまうんですな。

後半のストーリーとしては
天才生物学者の置き土産を解読し、
絶対的に次元の異なる怪物への、効果的な対策が見つかっていく。
それはまあ、虚構物語の終着としては何らおかしくない目的地なのですが、
こと、この映画に関しては、
「えっ、こんなんでうまくいくの?」という違和感。

この映画、言ってみれば、クラスに異次元の暴れん坊が転入してきた話ですね。
机なぎ倒し、クラスメートぶん投げ、まったく制御不能。
教室中、恐怖のズンドコで右往左往、もうどうなっちゃうのー!と思ってたところ、
勇気と知性ある生徒何名かの説得により、
荒ぶる彼をなだめ、なんとか席に着かせるだけは着かせた・・・
―完―
という物語でございます。
観る者としては、厄災の当事者としてではなく、
クラス内にて席の遠い取り巻きの一人として参加できるので、
無責任なカタルシスを味わいながら見物できる、という出来事です。
どうなることかとハラハラして見ながらも
不謹慎にも「もっとやれ!」的、社会性投げ出した小学生気分で
接続可能な共体験と言えます。

ゴジラさんをなだめ、おとなしく着席させた主人公達は物語上ヒーローであり、
そこで実現された作戦は、称賛すべき奇跡的成功であったはずです。
が、映画を見ているこちらの感情は、不穏な違和感なのですね。
「いつのまにか、違う世界の教室に来てしまったんじゃないか」的違和感。

そこに抱く違和感とは、
「語られるはずのない言葉が交わされた」違和感ですね。
もしくは
「こっち側のルールが、いつのまにかあっち側の仕様に書き換わってた」違和感。

「虚構」が「現実」側に飛び出してきた事件において、
最終的に効果のあった対策が、
なんだかとても「虚構的」だったのですな。
そうでなければ効果が無い(話が通じない)わけですから、
当然ちゃ当然なんですが、
どうも見てはいけないものを見せられた気分になる。
着々と作戦通りに効果を発揮する電車車両、特殊建築重機などのお見事な動きを前に
「やめてやめて、そんなの見せないで!」
という気分になる。
なんでしょか、これ。

おそらく、現実社会が現実社会のままあがき続ける姿を、観客として見たかった。
(少なくとも小社会人である私は見たがっていた。)
現実的行動様式の範囲内で全力で対峙し、無残に敗れ去る姿を見たがっていた。
(少なくとも私の中の破滅的ヒロイズムがそれを欲した。)

つまり、クラスメートにはいつまでも自分と同レベルのクラスメートでいて欲しかったのに、
いつのまにか敵側の言語で交渉し、話をまとめやがった。
そんな解決方をとるくらいなら、話が決裂したままメチャメチャになるほうが良かったぜ!
・・・という、大変にひねくれたドス黒い偏りを、心の中から引きずり出されてしまった。
そんな印象なのです。

さてこの座りの悪い「後味の悪さ」は、
おそらく意図的に仕掛けられた、予定通りの仕上げだと思われます。
「異質な相手と関わりを持つのに、気持ち良く事が運ぶはずあるかい。
 相手側に巻き込まれ、不快に混じりあう覚悟で向き合わんかい!」
というスタンスが、なんとなく心に響きます。

ただそれは、「現実に目を覚ませ」と訴えているわけではない。
むしろ、「現実を乗り越えた先は、すでにして夢も情緒もない、乾いた地平であるぞよ」という
恐ろしい終着点に導かれたのではあるまいか。
一応の決着がついたはずの「物語」を見た後の寂寥感からは、
そんな手触りが感じられたのでありました。
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腹式

蒸しアツお見舞申し上げます。
ここ半年ほど何をしてたかっちゅーと、
おもに吹奏楽本の本文イラストを描かせてもらっておりました。
『パワーアップ吹奏楽! フルート』(ヤマハミュージックメディア)
(以下、同シリーズにてトランペット、コントラバス、
 オーボエ、ファゴット、ホルン、クラリネット、ユーフォニアム、
 チューバ、トロンボーン、サクソフォン、パーカッション)

それぞれ楽器別に異なるノウハウが書かれているわけですが、
吹奏楽の基本となる「腹式呼吸」の項目などは
ほぼ全巻にわたって載っているわけですね。
本が違うとはいえ、同じイラストの使いまわしにならないよう、
「ちょっとずつ変えて」描いております。
01フルート腹式呼吸.jpg
03オーボエ-腹式.jpg04ファゴット腹式.jpg
05ホルン腹式.jpg
08サックス腹式.jpg
02トランペット腹式.jpg
07ユーフォ腹式.jpg
06クラ、エクササイズ.jpg
09ホルンへこませない.jpg
これでもかこれでもか、の腹式図。
今や、床に寝そべり吐息を漏らす学生の絵は、寝そべってても描けます。
いやまあ、当方の絵はどれも、いつも寝てても描けそうではありますが…。

それはともかく、各巻の著者の演奏家がしっかり取り上げたということは、
やはり「腹式呼吸」って大事なんですね。
べつに本当に腹に空気を入れるわけではなく、
「息を吸うときに腹がふくらむような動きをすれば、
 横隔膜がしっかり下がり、
 より多くの空気を肺に入れることができるぞよ。」
って理屈。

この、「本当に○○するわけではないが、○○すると思ってやる」方法論ちゅうのは、
身体操作の説明において不可欠、ほかに伝授のしようがない、とすら思えますね。

昔、駅前カルチャーセンターにて、主婦にまじって初心者太極拳を習っていた時に、
両手で軽く相手を引っ張るような動作があったんですが、
そのとき美人のセンセーに言われたのが、
「手で引っ張っちゃイケマセン。自分の背中から引っ張ってください。」とのこと。
そうしないと、相手は動きませんよ、てんですね。
別に、背中に運動エネルギーが発生して引っ張るわけではないんですが、
「背骨にヒモがついてて、誰かに引っ張られた。」と思って動くと、
たしかに、それらしい動きができるのが面白い。

また別の時期、知り合いに誘われ古武術の体験ちゅうのに参加した時に、
体全体を連動させるためのコツとしてセンセーが言われたのが
「足の裏を垂直に離陸させるような感覚」
てんですね。
本当に体が浮くわけではないが、「足裏の垂直離陸」を意識すると
余計な踏ん張りが消え、体全体を連動できる。というもの。
これは、僕にはかなり難しかった。
どったんばったん四苦八苦していると、別のセンセーが
「むしろ、足の裏が吸盤になっていて、地面から離そうとしたけど離れなかった、
 って思うといいよ。」
と言われ、これがストンと腑に落ちて、スッとできた。
面白いですね。
身体感覚を正確に言語化することなど不可能だと思われますが、
たしかに言葉によって身体感覚に明確な違いが出る瞬間があるわけです。
「足裏の垂直離陸」という言葉がスッとカラダに入る人もいれば
「足の裏が吸盤」という言葉がスッ入る人もいる。
言葉であるにもかかわらず、身体を動かしてみるまでは、
その言葉が自分に理解できるかどうかがわからない、という、
目の覚める体験でございました。

今回の吹奏楽本、腹式呼吸以外でも
「出した音と息が、顔の前でクルリと回って戻り、
 それをまた吸って出すように吹け」
というのがありました。
チューバ-基本的なブレス.jpg
実際にそういう空気の流れが存在するわけではありませんが、
そう思って吹く以外、
この身体の使い方を伝える方法が無かったわけですね。
以上は武術や楽器演奏という、常に身体性を意識せざるを得ない分野の
話ではありますが、
おそらく、現実世界とは、ほぼこの「○○だと思ってやる」ことで
成立している予感がしますね。
暑さにくたばり、部屋でヌバーと寝っ転がっているときも、
まるで、全身から背中へ流れた汗が集約し、
肩から腕に流れ込む力が働くかのように、
エアコンのスイッチに手が伸びると。
…何か違いますね。

久しぶりの書き込みなので、本当はこの三年間所属し、三月に終了した
実験架空高校「ぼんぼり高校」のまとめ考察などをぶちあげようと思っていたのですが、
梅雨明け前のキイロイボウミウシのごとき思考回路ではちと厳しいため
またこんど。
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三申

あけましておめでとうございます。
年賀状に何を描こうか迷って
カエサル、サルトル、サルバトール・ダリ、の3サルを
描いてみたんですが、
あまりおめでたい感じになりませんでした。
年賀状2016イラスト.jpg
本当は加藤マサルを加えて「腐らざる」にしようかとも
思ったんですが、
さすがにネタが古すぎるのと、
実際に買いだめたミカンが腐った時のトラウマが大きすぎたため
メンバーから外しました。

さて、年末年始というものは全国キチンキチンと各家庭儀式が行われることで
合わさった力でカチンと時計の針が動き、ようよう新年をお迎えすることができる、
というのが正しい日本人的共同体という気がするものですが、
どうも我が家はこの世界文化時計の動力として役立てていない。
うちは子供がいないものですから、「今年もアレをやってあげないとかわいそう」
という義務感に欠けるんですな。

だいたい年中行事なんてのは成長の速い子供世界のタイムスケールとして
最も効果を発揮するのであって、
たしかに自分自身、小さいころに経験したコーハクの真夜中感、正月の親族おしかけ感、
お彼岸のオハギの味などをもってして、
「ああ、たしかにあの時、あの場所にいたからこそ時が流れた」
的な共通時間軸を身に着けることができたように思います。
ですがねえ、オッサンと成り果て数十年を重ねてきますと
いつどこで何をしようと、明日がたいして変わらないのは身に染みている。
あわてて歳時を記録しなくとも、普通に日が昇り沈むのを知っちゃってるんである。
これはさびしい。
さびしいながらも、そのさびしさが行動に結びつかないタイプのさびしさなので、
特にどうと言う事もなく、プラプラと近所で買い物などしておったのですな。

この、でかいシリコン調理器がほしい、いや邪魔だ、あっあそこの新しくできた店も見てみたいなどと嫁さんと言い争いながら歩いておりますと、どうも周りの商店がつぎつぎと閉まっていきます。
あれ、もう終わり? なんだか早過ぎやしませんか、ってとこではじめて
そうか今日は大晦日であって、みなさまさっさと買い物すませて家でテレビ見たり、そば・おせちの準備したり、もしくはどこぞに繰り出してカウントダウンをどうにかしたりする夜なのでありましたな、と気が付く次第。

こうなると、買い物疲れの一休憩に入るようなコーヒー店も、軒並み明かりが消えていく。
この時代にあって、なかなかこの地域は歳時記遂行しようとしてるんである。
仕方なく、普段入らない、ちょっと遠い24時間ファミレスへ。ここはさすがに開いている。

ガラガラのファミレスの大きなソファ席に座り、なんちゃらハンバーグカレーを食べ、無限おかわりコーヒーなどを飲んでおりますと、実に落ち着く。
静かなこの店には、歳時記、関係無し。歳時記どころか、今何時なのかもよくわからん。
ほら、アメリカのなんとかいう画家が描いた、夜中のカフェの絵があるじゃないですか。音のまったくしないような、無機質な感じの、でも不思議と落ち着く人工的な風景。
あの絵はおそらく、街が寝静まった深夜に、一軒灯る店のあかりに寄って来た数人だけのさびしさが創る世界だと思うのですが、もしかしたら案外早い時間なのかもしれませんね。
街は別に寝ちゃあいない。まだ行くべき場所もたくさんあるし、みんな活動している。
でもこの静かな店内に入った瞬間、なぜだか時間がわからなくなり、
音の無い世界で静止してしまった… みたいな。

そんな気分を知っているのか、店長らしき恰幅紳士が、場末のファミレスとは思えぬ丁寧な物腰で対応してくれる。よろしゅうございますか? ありがとうございます。 またおいでくださいませ。
洗練された中年男性の笑顔というのは、時に男の目から見て「ヤラレタ、かなわねえ。」という衝撃を受ける。こちらも勢いニューヨーク午前3時のような気分で、ニタリとキモい笑顔を返し、店を出る。
まだ夜8時であった。

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4コマ

漫画雑誌ではないですが、4コマ漫画のお仕事が2つほど続いたので少々お知らせ。

ひとつめは吹奏楽関係のムック本。
『パワーアップしようぜ!みんなの吹奏楽 vol4』(ヤマハミュージックメディア)
「プロコーチが叱る!こんな吹部はNGです」という特集内で
4コマ漫画を6本描いています。

吹奏楽、喜怒哀楽.jpg
スットコドッコイな吹奏楽部員の行動を、コーチに来たプロ演奏家がツッコむ、というテイの内容です。
プロットはすべて編集さんが考えてくれたんですが、
この編集さんが毎度、とてもマンガ的センスに優れたネタを作ってくれる方なので
非常にスムーズに「4コマ」として描けました。
こうした特集記事の補足的位置のマンガって、内容の「説明」をとるか、
マンガとしての「ギャグ」をとるかで、バランスが難しいおますな。
その微妙なところを、文字としてのプロットの時点で、完全に完成形のバランスをつかんで
組み立ててくれているので、「さすがやな~」と感心しきり。
実際に仕上げの作画作業をするかどうかがマンガ家ではなくて、
こうした完成形のバランスを脳内でつかめるかどうかがマンガ家の条件なのじゃろうと、
あらためて思います。

ふたつめは医療関係のマニュアル本。
『理学療法 臨床実習サポートブック』(医学書院)
理学療法士というのは、簡単に言うと「リハビリなどの、身体機能回復治療のプロ」
って事になると思いますが、
その資格を取るために避けて通れない、各地病院での過酷な実習を乗り切るための
お助け本、という感じです。

pt表紙.jpg
PT実習.jpg
著者の一人である、理学療法士にして「古武術介護」で著名な岡田慎一郎さんから
お声をかけていただき、マンガ部分を担当させていただきました。
本の企画自体は3年以上前から動いていたもので、
僕も初期の打ち合わせに参加させてもらったり、
病院での実習現場の取材などさせていただいたおかげで
非常に親近感と思い入れを持って描くことができました。

著者の方々は、理学療法士の資格を持ちつつ様々な分野でご活躍の6名なのですが、
それぞれの実習体験を伺い、マンガになりそうなネタをいただき、
キャラとして絵にしていく…という事をしているうちに、
なんだか「大学のサークル連中と、定期演奏会に向けてあれこれ準備する」みたいな
なつかしくワクワクする活動となりました。

企画の中心となった編集さんが、非常に頭のやーらかい、
「オモロイことやっちゃえやっちゃえ!」的な方でして、
結果、「医学系資格所得における実習対策本」という書籍としては異例の
4コマ漫画20本以上、実録実習生の一日紹介漫画、など、
絵だらけの一冊となりました。

しかし、この企画に携わって初めて知ったのが
「ほんと、PT(理学療法士)実習の現場はキビシイ」って事でして。
学校から紹介された全国の病院にて、近くに部屋を借り、
1回につき数週間~数ヶ月も勤務し、実際の患者さんに接し、
バイザーと呼ばれる指導者に厳しく指導され、毎日レポートを書く。
平均3、4時間しか寝られず、飲み会にも参加し、人間関係に苦しみ、
最終的に不合格となる…などなど。
僕の知り合いにも、ちょうどこの時期に理学療法士学校に通っていた人がおりまして、
「この本を見せたら、喜んでくれるぞ!」と思っていたのですが、
やはり実習で苦しみ、本が出る前に辞めてしまわれました…。間に合わなかったよ…。

わからんではないのですよね。医療現場の厳しさというものを。
「マニュアル化できないような、不条理な毎日の課題に対応できてこそ、
 多様な人間相手の医療行為を行なう資格が身につく」ということを。
それだけに指導者側も、一切妥協することなく、必要なキビシサをもって接しているのだと。
そこをあえてこうした「お助け本」を作ろうてんですから、
著者、編集さん、出版社側の立場として「どこを落としどころにするか」てのは、
相当に苦労されたと思われます。
いえね、マンガにするネタも、下手すると
「実習先で、ひでえ目にあった恐ろしい話」ばかりになっちゃうわけですよ。
漫画担当としては、「ひでえ話、大歓迎! もっともっと!」と
とても描きやすいわけですが、
本としては、「よけい実習生ビビらせてどーするよ?」てなことになりかねん。
いかにプラスに、実習生のためになる方向に価値を上げるか、て部分で
完成ギリギリまで、みなさんの苦労と工夫が表れていたように思います。
「本てのは、こーして出来上がっていくんだなー」という事を
しみじみ実感させていただくお仕事となりました。


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